貧困や親との死別という逆境にもめげず、勉強に励んでのちに「偉人」となった二宮金次郎(尊徳)は、まさしく「少年少女の模範」。その象徴たる金次郎像は、昭和初期から全国の小学校に置かれるようになりましたが、そのきっかけを作ったのは岡崎の石工たちです。
当時、世は昭和恐慌の真っただ中、石製品の販売量は急速に下降線を辿っていました。これを打開しようと、東京で活躍する彫刻家を講師として岡崎に招いて彫刻技術を磨き、完成させたのが金次郎像でした。
最初に金次郎の石像を手掛けた石工は、石仏などを手掛けていた長坂順治。仲間の石工とともに、各地の産業博覧会へ出品したり、全国の小学校長が集まる会合でアピールするなど熱心な宣伝活動を展開し、金次郎の石像は瞬く間に全国の小学校へ広まっていきました。
当時、世は昭和恐慌の真っただ中、石製品の販売量は急速に下降線を辿っていました。これを打開しようと、東京で活躍する彫刻家を講師として岡崎に招いて彫刻技術を磨き、完成させたのが金次郎像でした。
最初に金次郎の石像を手掛けた石工は、石仏などを手掛けていた長坂順治。仲間の石工とともに、各地の産業博覧会へ出品したり、全国の小学校長が集まる会合でアピールするなど熱心な宣伝活動を展開し、金次郎の石像は瞬く間に全国の小学校へ広まっていきました。
ピークは第二次世界大戦前ですが、戦後も昭和30年代までは盛んに作られました。市内の小学校で最も新しい金次郎像は、矢作南小学校にあります。
建立は1999年(平成11年)。ただしこれは「2代目」で、以前は同じ場所に1933年(昭和8年)建立の初代が立っていました。足の部分が劣化して倒壊の危険があったため、当時の学区総代会が計画し建て直したのが現在の像です。
手掛けたのは、近くの石工団地にある稲垣石材店の稲垣英夫さん。そして初代の像の作者は、英夫さんのお父さんである稲垣寿山(本名・清市)です。
寿山は1904年(明治37年)、学区の島坂町の農家の生まれ。子どもの頃から彫刻が好きで、市内の石工の親方に弟子入りする一方で、名古屋の鋳型師から彫刻を学び、若くして独立し中町(根石学区)に店を構えました。
金次郎像ブームが到来すると寿山にも注文が舞い込み、生涯にわたり数多くの像を制作しました。矢作南小学校(当時は矢作第三尋常小学校)の像を依頼されたのは、卒業生という縁からでしょう。
英夫さんは、高校在学中の昭和30年頃から父のもとで修業を始めました。英夫さんが店を任されるようになった頃にはすでに学校向けの需要はほとんどなかったものの、個人からの注文はまだ多かったといいます。今もたまに問い合わせがあるとか。
建立は1999年(平成11年)。ただしこれは「2代目」で、以前は同じ場所に1933年(昭和8年)建立の初代が立っていました。足の部分が劣化して倒壊の危険があったため、当時の学区総代会が計画し建て直したのが現在の像です。
手掛けたのは、近くの石工団地にある稲垣石材店の稲垣英夫さん。そして初代の像の作者は、英夫さんのお父さんである稲垣寿山(本名・清市)です。
寿山は1904年(明治37年)、学区の島坂町の農家の生まれ。子どもの頃から彫刻が好きで、市内の石工の親方に弟子入りする一方で、名古屋の鋳型師から彫刻を学び、若くして独立し中町(根石学区)に店を構えました。
金次郎像ブームが到来すると寿山にも注文が舞い込み、生涯にわたり数多くの像を制作しました。矢作南小学校(当時は矢作第三尋常小学校)の像を依頼されたのは、卒業生という縁からでしょう。
英夫さんは、高校在学中の昭和30年頃から父のもとで修業を始めました。英夫さんが店を任されるようになった頃にはすでに学校向けの需要はほとんどなかったものの、個人からの注文はまだ多かったといいます。今もたまに問い合わせがあるとか。
隣の矢作西小学校には、梅園小学校に次いで2番目に古い1932年(昭和7年)建立の金次郎像があります。当サイトでは同校の資料館「江西館」を紹介しましたが、その館内に金次郎像の前に子どもたちが並んでいる古い写真が展示されています。
これは何の光景かというと、子どもたちが「金次郎踊り」を踊っているところ。
振付は不明ですが、踊り歌を作詞・作曲したのは、矢作地区出身で農業博士と民謡作家という2つの顔を持つ岩槻信治(三江)。当サイトの記事「岩槻信治と岡崎の盆踊り唄」で紹介した『三江歌謡集』に「矢作第一小 石像歌」のタイトルでその歌詞が載っています。
一、昭和六とせの秋の末 尊き宮の成りませる
高きほまれをとこしへに 仰ぎたたへむ石の像
二、背に負ふるは柴ならで 家を興さむ重荷なれ
手に取る書は経世の 徳を育む糧なれや
三、「いとまなしとて書読まぬ」人にはなりそ みをしへの
道は世の為人の為 勤倹力行 四つの文字
四、宇頭ヶ岡に打ち立てし 学びの鑑 石の像
仰ぎたたへむもろともに あゝ二宮氏金次郎
一番に出てくる「尊き宮」とは、のちに陸軍大将や総理大臣を務めた皇族の東久邇宮のこと。1931年(昭和6年)の晩秋に来校し、金次郎像はそれを記念して建立されたと『三江歌謡集』に記されています。
それにしても、一体どんな曲調で、どんな踊りだったのでしょうか。
これは何の光景かというと、子どもたちが「金次郎踊り」を踊っているところ。
振付は不明ですが、踊り歌を作詞・作曲したのは、矢作地区出身で農業博士と民謡作家という2つの顔を持つ岩槻信治(三江)。当サイトの記事「岩槻信治と岡崎の盆踊り唄」で紹介した『三江歌謡集』に「矢作第一小 石像歌」のタイトルでその歌詞が載っています。
一、昭和六とせの秋の末 尊き宮の成りませる
高きほまれをとこしへに 仰ぎたたへむ石の像
二、背に負ふるは柴ならで 家を興さむ重荷なれ
手に取る書は経世の 徳を育む糧なれや
三、「いとまなしとて書読まぬ」人にはなりそ みをしへの
道は世の為人の為 勤倹力行 四つの文字
四、宇頭ヶ岡に打ち立てし 学びの鑑 石の像
仰ぎたたへむもろともに あゝ二宮氏金次郎
一番に出てくる「尊き宮」とは、のちに陸軍大将や総理大臣を務めた皇族の東久邇宮のこと。1931年(昭和6年)の晩秋に来校し、金次郎像はそれを記念して建立されたと『三江歌謡集』に記されています。
それにしても、一体どんな曲調で、どんな踊りだったのでしょうか。
金次郎像は小学生の背丈と遜色ないものが多いのですが、中には1メートルに満たない小ぶりな像もあります。そのひとつが岡崎小学校の金次郎像。
建立は1949年(昭和24年)。実は矢作南小学校と同じくこの像も2代目で、初代は1930年(昭和5年)に建てられた銅像でした。しかし戦時中の金属不足のなか、兵器の材料にするため撤去されてしまいます。戦後、金次郎像の不在を惜しんだ卒業生により、石像として復活したのでした。
岡崎小学校のように、銅像が供出されて戦後石像で再建した例には、山中小学校、福岡小学校、矢作北小学校、羽根小学校などがあります。昭和初期以前の創立で金次郎像がない小学校の中には、銅像が撤去されたまま再建されなかったところもあると思われます。
建立は1949年(昭和24年)。実は矢作南小学校と同じくこの像も2代目で、初代は1930年(昭和5年)に建てられた銅像でした。しかし戦時中の金属不足のなか、兵器の材料にするため撤去されてしまいます。戦後、金次郎像の不在を惜しんだ卒業生により、石像として復活したのでした。
岡崎小学校のように、銅像が供出されて戦後石像で再建した例には、山中小学校、福岡小学校、矢作北小学校、羽根小学校などがあります。昭和初期以前の創立で金次郎像がない小学校の中には、銅像が撤去されたまま再建されなかったところもあると思われます。
金次郎の材料は石や銅のほかにセメントもありました。全国で初めて学校に建立された金次郎像は1924年(大正13年)に制作された豊橋市の前芝小学校のもので、これはセメント製です。
岡崎市の学校は99%が石像ですが、唯一のセメント像が根石小学校にあります。石像に比べると細身ですが、校舎前の高い台座の上に設置してあり、なかなかの存在感です。
ところが根石小にはもう1体、金次郎像が存在するのです。正門横に置かれたこの石像の傍らには「新学制30周年記念補修」と記された昭和52年(1977年)建立の石碑があり、裏には矢作南小学校の項で紹介した稲垣英夫さんの名が記されているではないですか。
改めて稲垣さんに聞くと、石工団地へ移転するまで稲垣石材店は中町にあったので、稲垣さんも根石小学校の卒業生。その縁で校長より依頼され、折れていた足を修復して再び自立させたとのこと。
おそらく、石像は戦前に作られ、足が折れて一時撤去されていた間に、セメント像が建立されたのではないかと思われます。
ちなみに、校長は後に南中学校(戸崎町)に転任し、「中学校にも金次郎像がほしい」と稲垣さんに依頼。中学校には数少ない金次郎像が設置されることになりました。
岡崎市の学校は99%が石像ですが、唯一のセメント像が根石小学校にあります。石像に比べると細身ですが、校舎前の高い台座の上に設置してあり、なかなかの存在感です。
ところが根石小にはもう1体、金次郎像が存在するのです。正門横に置かれたこの石像の傍らには「新学制30周年記念補修」と記された昭和52年(1977年)建立の石碑があり、裏には矢作南小学校の項で紹介した稲垣英夫さんの名が記されているではないですか。
改めて稲垣さんに聞くと、石工団地へ移転するまで稲垣石材店は中町にあったので、稲垣さんも根石小学校の卒業生。その縁で校長より依頼され、折れていた足を修復して再び自立させたとのこと。
おそらく、石像は戦前に作られ、足が折れて一時撤去されていた間に、セメント像が建立されたのではないかと思われます。
ちなみに、校長は後に南中学校(戸崎町)に転任し、「中学校にも金次郎像がほしい」と稲垣さんに依頼。中学校には数少ない金次郎像が設置されることになりました。
そもそも二宮金次郎(尊徳)の名が世に広まったのは、江戸時代後期に恐慌で荒廃していた農村を、倹約・労働・自己犠牲の精神で立て直そうと指導したことによります。尊徳の思想は「報徳」と呼ばれ、全国に広まりました。金次郎像が普及した昭和初期は、大恐慌で農村経済が大打撃を受けていた時期。各地では、尊徳の報徳思想をもとに村民自らの力でこの状況を打開しようと努力が続けられていました。
二宮金次郎はこの時代の大人たちにとって身近な存在で、尊敬を集めていたからこそ、その像が全国に普及したのです。
今回の調査では小学校(廃校・附属小含む)39体、中学校4体が確認できました。このほか公民館や神社、個人宅など学校以外に設置される例もあります。
二宮金次郎はこの時代の大人たちにとって身近な存在で、尊敬を集めていたからこそ、その像が全国に普及したのです。
今回の調査では小学校(廃校・附属小含む)39体、中学校4体が確認できました。このほか公民館や神社、個人宅など学校以外に設置される例もあります。
〇参考文献
「『教育愛知』連載記事抜刷 愛知県近代教育百年史稿」
「東海愛知新聞社 2003~06連載記事『石都岡崎』63・64・65」
「石都岡崎 石と共に生きる 組合設立100年記念誌」/発行:岡崎石製品協同組合連合会
「岡崎南風土記」/編著:大石収宏
「岡崎竜海風土記」/編著:大石収宏
「わが町の二宮金次郎」/著者:三浦茂
「続 わが町の二宮金次郎」/著者:三浦茂
「二宮金次郎像」http://kinjiro.a.la9.jp/
「『教育愛知』連載記事抜刷 愛知県近代教育百年史稿」
「東海愛知新聞社 2003~06連載記事『石都岡崎』63・64・65」
「石都岡崎 石と共に生きる 組合設立100年記念誌」/発行:岡崎石製品協同組合連合会
「岡崎南風土記」/編著:大石収宏
「岡崎竜海風土記」/編著:大石収宏
「わが町の二宮金次郎」/著者:三浦茂
「続 わが町の二宮金次郎」/著者:三浦茂
「二宮金次郎像」http://kinjiro.a.la9.jp/
〇ライター:内藤昌康
1971年生まれ、岐阜県出身・西三河在住。遠隔地で岡崎産石造物を探して原稿を書くのが趣味。これまでにも東三河の小学校の金次郎像を全て調査・撮影しています。
1971年生まれ、岐阜県出身・西三河在住。遠隔地で岡崎産石造物を探して原稿を書くのが趣味。これまでにも東三河の小学校の金次郎像を全て調査・撮影しています。
インフォメーション
場所:岡崎市全域