地元では「やつおもてさん」、「やつがみさん」などと呼ばれて親しまれている切越八面塔(きりこしはちめんとう)。岡崎市指定文化財でもある石塔ながら、どんなものか?どうやって行くのか?など、多くを知られていません。そこで今回は道案内を兼ねて、この石塔についてご紹介したいと思います。
まず真っ先にお伝えしなければならないのは、最速のアクセスが道幅の狭い凸凹(デコボコ)道ということ。車で行く場合は、なるべく軽自動車をおすすめします。スピードを控えないと大きく縦揺れしたり、雨が降った後は滑りやすくなったりしますので、くれぐれも慎重に通行してくださいね。また周辺は携帯電話が通じないところも多いので、万全を期してお出かけください。
まず真っ先にお伝えしなければならないのは、最速のアクセスが道幅の狭い凸凹(デコボコ)道ということ。車で行く場合は、なるべく軽自動車をおすすめします。スピードを控えないと大きく縦揺れしたり、雨が降った後は滑りやすくなったりしますので、くれぐれも慎重に通行してくださいね。また周辺は携帯電話が通じないところも多いので、万全を期してお出かけください。
県道37号岡崎作手清岳線から曲がった1本道が行き止まると、1軒の民家が見えます。そこには石塔らしきものは見当たらずに不安になりますが、ご心配なく。このお家は切越八面塔を守ってくれている青山家のお宅で、このお家の前を通らせてもらって切越八面塔へ向かいます。
さらにまっすぐ進むと山道があらわれます。自然林の中に特に目印はないのですが、石塔に導かれるように続く道筋をたどって行きましょう。右手に石段が見えたら、もうすぐそこ。階段の正面に石塔が見えてきます。
さらにまっすぐ進むと山道があらわれます。自然林の中に特に目印はないのですが、石塔に導かれるように続く道筋をたどって行きましょう。右手に石段が見えたら、もうすぐそこ。階段の正面に石塔が見えてきます。
まずは正面に立って、お参り(ごあいさつ)を。それでは見てまいりましょう。塔の立っている場所は直径約6mの台地で、階段上の入口には門柱らしき石も立っています。
8基ある塔は、どれも地面に掘り立てた細長い4本の石の上に、平らな石を置いて土台となる第1層を築いています。その上に丸みのある石が数個置かれ、その上に板状の石を置いて全体で4層から6層に。また最上部には仏塔で見られる相輪(そうりん)に見立てた細長い石が置かれています。塔の高さは1.5mから1.7mほどで、自然石を使った多層塔として大変珍しいものだそうです。
8基ある塔は、どれも地面に掘り立てた細長い4本の石の上に、平らな石を置いて土台となる第1層を築いています。その上に丸みのある石が数個置かれ、その上に板状の石を置いて全体で4層から6層に。また最上部には仏塔で見られる相輪(そうりん)に見立てた細長い石が置かれています。塔の高さは1.5mから1.7mほどで、自然石を使った多層塔として大変珍しいものだそうです。
さて、この塔にまつわる不思議なエピソードを紹介しましょう。まずは最大震度7と推定される2つの大地震で崩れなかったことです。東海から近畿までに甚大な被害をもたらした1944年の東南海地震や1945年の三河地震で倒れなかったことが最大の不思議として語り継がれています。
そのほか、江戸時代の終わりに、この集落が流行り病に襲われた時のこと。困った村人が易者に「落ち武者の霊を祀るように」と告げられ、山中で崩れかかっていた塔を村中総出で整えて文化9年8月29日に霊を祀ったところ、病気がピタリと治まったという話。また塔の立つ台地に上がる階段下の高さに立って真正面や真横から見ると、どう見ても7塔までしか見えないという話も不思議です。そして個人の願いが叶ったとか、叶わなかったとか…などなど、そんなエピソードの積み重ねで、いつしかパワースポットと呼ばれるようになったそうです。
そして最近でも「イノシシが塔のすぐ近くまで荒らすんだけど、塔には悪さをしないんだよね」と教えてくれたのは前掲の青山家の青山恒善(つねよし)さん。三河の田舎で暮らしている私は知っています。イノシシは100kg近くある石だって平気で動かしてしまうバカヂカラの持ち主で、情け容赦なく田んぼや石垣をメチャクチャにしてしまうことを。それが塔の周辺は掘り返した跡がいくつも見られるのに、石塔自体には何の被害もありません。私にとっては、これが一番不思議でした。
そのほか、江戸時代の終わりに、この集落が流行り病に襲われた時のこと。困った村人が易者に「落ち武者の霊を祀るように」と告げられ、山中で崩れかかっていた塔を村中総出で整えて文化9年8月29日に霊を祀ったところ、病気がピタリと治まったという話。また塔の立つ台地に上がる階段下の高さに立って真正面や真横から見ると、どう見ても7塔までしか見えないという話も不思議です。そして個人の願いが叶ったとか、叶わなかったとか…などなど、そんなエピソードの積み重ねで、いつしかパワースポットと呼ばれるようになったそうです。
そして最近でも「イノシシが塔のすぐ近くまで荒らすんだけど、塔には悪さをしないんだよね」と教えてくれたのは前掲の青山家の青山恒善(つねよし)さん。三河の田舎で暮らしている私は知っています。イノシシは100kg近くある石だって平気で動かしてしまうバカヂカラの持ち主で、情け容赦なく田んぼや石垣をメチャクチャにしてしまうことを。それが塔の周辺は掘り返した跡がいくつも見られるのに、石塔自体には何の被害もありません。私にとっては、これが一番不思議でした。
それでは、少々難しいですが、この塔の由来とされる数々の説の中から5つを紹介します。
1つめは平家の落ち武者のお墓説。これは源平合戦に敗れ、東国を目指す途中の隠れ里としてこの地を選んだ平家の落ち武者のお墓であるという説です。
2つめは俵藤太(藤原秀郷)の墓説。平将門を追討した功績を持つ俵藤太が切越の兵藤家の祖かもしれないということから生まれた説です。
3つめは南朝関係者説。南朝の長慶天皇の墓、もしくは南朝関係者の祈祷所という説。南朝名入りの塔婆が奉納されているなどの事柄から推察されています。
4つめは本間家の墓説。平氏一門の流れを受け継ぐ本間一族の墓という説です。本間家が切越の有力者であったことから生まれた説ですが、本間家は否定しているそうです。
5つめは北斗七星祭祀遺跡説。この周辺の河合地区が伊勢神領だったこともあり、真言密教にとって運命星を定める北斗七星の祭祀を行う祭壇跡という説です。
どれも、立派な造りの塔ゆえに、力を持った人物のお墓や祭祀など、特別な意味を持つものと考えられているようです。
1つめは平家の落ち武者のお墓説。これは源平合戦に敗れ、東国を目指す途中の隠れ里としてこの地を選んだ平家の落ち武者のお墓であるという説です。
2つめは俵藤太(藤原秀郷)の墓説。平将門を追討した功績を持つ俵藤太が切越の兵藤家の祖かもしれないということから生まれた説です。
3つめは南朝関係者説。南朝の長慶天皇の墓、もしくは南朝関係者の祈祷所という説。南朝名入りの塔婆が奉納されているなどの事柄から推察されています。
4つめは本間家の墓説。平氏一門の流れを受け継ぐ本間一族の墓という説です。本間家が切越の有力者であったことから生まれた説ですが、本間家は否定しているそうです。
5つめは北斗七星祭祀遺跡説。この周辺の河合地区が伊勢神領だったこともあり、真言密教にとって運命星を定める北斗七星の祭祀を行う祭壇跡という説です。
どれも、立派な造りの塔ゆえに、力を持った人物のお墓や祭祀など、特別な意味を持つものと考えられているようです。
「青山さんには何か不思議なことはなかったんですか?」という私の問いかけに、「まわりの人はいろいろ言うけど、特別なことはないよ。昔から大切にしてきたものを、これからも大切にしていくだけ」と青山さん。地元のかたはそこにある、ありのままを受け入れて、変わらない生活をしているだけなんですね。
帰りがけに谷を見下ろすと、そこには青い空。いろいろと知りたい気持ちはありますが、こんな爽やかな空に出会ってしまったら、謎は謎のままで良い気がしました。道が狭くて怖かったけど、来て良かった。
帰りがけに谷を見下ろすと、そこには青い空。いろいろと知りたい気持ちはありますが、こんな爽やかな空に出会ってしまったら、謎は謎のままで良い気がしました。道が狭くて怖かったけど、来て良かった。
〇取材協力(敬称略)
近藤智茂一
青山恒善
〇参考文献
「生平のむかし」/著者:城殿輝雄
「河合の里の自然と名所・旧跡」/編集:河合地区総代会
「新編岡崎市史」/著者:新編岡崎市史編集委員会
「1944 東南海地震・1945 三河地震」(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書)/内閣府(平成19年3月)
「図説・源平合戦人物伝」/発行:学習研究社
近藤智茂一
青山恒善
〇参考文献
「生平のむかし」/著者:城殿輝雄
「河合の里の自然と名所・旧跡」/編集:河合地区総代会
「新編岡崎市史」/著者:新編岡崎市史編集委員会
「1944 東南海地震・1945 三河地震」(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書)/内閣府(平成19年3月)
「図説・源平合戦人物伝」/発行:学習研究社
〇関連学区まちものがたりリンク
22生平学区まちものがたり
22生平学区まちものがたり
〇ライター:小嶋かおり
愛知県豊田市(山間部)出身。三河を中心としたタウン誌の編集に始まり、フリーランスとなって東海地方の旅の情報誌を中心に執筆。生家を出て初めて住んだ場所も、高校も、初就職も、現在の出没地も岡崎…「隠れ岡崎市民」を自負しております。
愛知県豊田市(山間部)出身。三河を中心としたタウン誌の編集に始まり、フリーランスとなって東海地方の旅の情報誌を中心に執筆。生家を出て初めて住んだ場所も、高校も、初就職も、現在の出没地も岡崎…「隠れ岡崎市民」を自負しております。
インフォメーション
場所:愛知県岡崎市切越町落