松平家・徳川家とも関係の深い 是字寺「龍海院」

公開日:2021.10.29     まなぶ
徳川家康公生誕の地・岡崎。
市内には、家康公ゆかりの寺社仏閣や史跡が数多くあります。

名鉄東岡崎駅南口からすぐにある「龍海院」もそのひとつ。松平家・徳川家との繋がりや語り継がれるエピソードをご紹介します。

「龍海院」の成り立ちとは?

  • 山門

    山門

  • 本堂

    本堂

龍海院は、曹洞宗のお寺です。1530年(享禄3年)に松平清康公(家康公の祖父)が建立し、武運長久(ぶうんちょうきゅう=戦いでの幸運が久しく続くこと)の祈願寺としました。

同じく市内にある龍渓院(1444年開基。その後、家康公の父・松平広忠公によって再興)が山の近くにあるのに対して、海側にあるので、龍“海”院と名付けられたと言われています。

本堂の向きにも特徴が。
曹洞宗では、お釈迦さまが南向きに座って説法をしていたといういわれから、本堂は南向きに建てることが多いそうです。しかし、龍海院は岡崎城天守閣から拝めるようにとの配慮から、全国的にも珍しく北向きで建てられています。

通称名は「是字寺(ぜのじでら)」

龍海院の山門や鐘撞き堂・灯籠など、境内のいたるところに「是」の文字があります。これには、家康公の天下統一とも関わりの深いエピソードが残されています。

今からさかのぼること約490年前、家康公の祖父・松平清康公が岡崎城に在城の頃、元旦の初夢に「是」の字を左手に握る夢を見たそうです。

この夢を、龍渓院の輪番住職模外(もがい)禅師に尋ねたところ、「是の字を分けると、日の下の人となる。是の字を握るは天下を取ることなり。遅くとも、清康公の三代後までには、必ず、天下人が現れるであろう。」と予言しました。
それを聞いた清康公は大変喜び、模外禅師を初代として龍海院を建立したそうです。

これが、龍海院が「是字寺」と呼ばれるようになった起源とされています。
その予言どおり、清康公の三代後にあたる家康公は、1603年に天下統一を果たしました。
是之寺の碑
灯籠
山門の瓦

龍海院の境内をご紹介!

  • 本堂

    本堂

本堂
山門をくぐると、目の前に本堂が姿を現わします。
創建以来、本堂は2回再建されました。

1回目は、家康公の関東への国替えに伴い、酒井重忠が武蔵・川越(現在の群馬県前橋市)で龍海院を建立したため、岡崎の龍海院は岡崎城主となった田中吉政によって破却されました。その後、1601年(慶長6年)に本多康重によって再建されています。

2回目は、1945年(昭和20年)の岡崎空襲で山門以外が全焼、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風により墓地が大被害を受けてしまいました。その後、檀家の支援もあり、1972年(昭和47年)に再建。現在の本堂は、建築家の山口文象氏によって設計されました。
龍海院・松平家にゆかりの人物のお墓
松平清康公のお墓。
家康公の祖父であり、松平家7代目の当主です。
是字寺を建立しました。
酒井雅楽頭正親(さかい・うたのかみ・まさちか)のお墓。
清康公・広忠公・家康公の三代に仕えた家臣です。建立の際、清康公が改宗を希望しましたが、松平家の菩提寺である大樹寺が反対をしたため、代わって、酒井正親が檀家となりました。
以来、龍海院は酒井家の菩提寺となっています。
家康公の継母「真喜姫」のお墓。
出身地から田原御前と呼ばれ、家康公が江戸に国替えした後も岡崎城にとどまりました。
父は、竹千代(のちの家康公)を尾張織田氏のもとに送った、田原城主の戸田光康。
  • 地蔵堂

    地蔵堂

地蔵堂
境内に入ると左手にある地蔵堂は、岡崎三十六地蔵第29番礼所です。
岡崎三十六地蔵とは、江戸時代後期、1834年(天保5年)の記録で成立が確認される岡崎城下全長約27㎞の地蔵霊場です。地蔵菩薩を念じればどこにでも現れて、すべての人々に救いの手を差し伸べ、どんな苦難からも救済してくれると信じられており、庶民からの信仰を大いに集めました。

岡崎市観光協会では、江戸時代後期に盛んになった城下の寺院の地蔵尊をめぐる「おかまいり」スタンプラリーを実施中です。龍海院の地蔵は29番目のスタンプスポットとなっております。200年前の人々と同じ道を、同じように歩いて巡ることで、岡崎の歴史の豊かさや、歩きながら見つけるあなただけの特別な場所との出会いをお楽しみ下さい。

<「おかまいり」について>
開催期間:令和2年11月1日~
お問合せ先:(一社)岡崎市観光協会 0564-64-1637
松平家・徳川家にゆかりのある龍海院はいかがでしたでしょうか?
ぜひ、家康公の天下統一を予言した「是」の字を探しに訪れてみてくださいね。

<施設情報>
龍海院
住所:明大寺町西郷中34‐1
アクセス:名鉄東岡崎駅から徒歩3分