「浄瑠璃」みなもとの地・岡崎 ~ 浄瑠璃姫伝説

公開日:2015.11.11     まなぶ
この岡崎の地で、あの牛若丸(源義経)と浄瑠璃姫が出合い、お互いに恋い焦がれ、惹かれあうものの、揺れ動く時代の中で、別れ別れの運命のすえ悲恋の結末となる「浄瑠璃姫物語」。この物語は、その悲恋があったとされる時代から三百年を経て京の地で広まり、その独特な節回しは、日本の代表的な伝統芸能の一つで、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている「浄瑠璃」へと発展していきました。
岡崎には、浄瑠璃姫にまつわるお寺や史跡、義経が関わったことをうかがわせる地名や仏像などが点在する一方で、八百年の間に何度も大きく変化した岡崎の歴史の中で、物語の真相は分からなくなってしまいました。これまで長い間、著名な研究者から郷土史家、地元の旦那衆までが様々に説を繰り広げてきましたが、決定的な結論は出ていません。もはや、この歴史ミステリーを紐解くことは、岡崎の人々の間で引き継がれてきた“文化”の一つと言っても過言ではありません。
今回のDiscover Okazakiは、浄瑠璃姫物語とそれにまつわる史跡とともに、何故これが、時空を超えて物語と現実とが入り交じる壮大な歴史ミステリーとして多くの人を魅了してきたかをご紹介したいと思います。

浄瑠璃姫物語

浄瑠璃姫物語には、いくつかの種類がありますが、最も広く知られるのが「浄瑠璃十二段草子」です。姫の出生の秘密から、牛若丸(義経)と出会って別れるまでが物語となっています。そのストーリーは、惹かれ合う男と女の心の細やかな描写と、平安後期の優雅な貴族の暮らしとを見事に描いた傑作です。

“時は平安時代の終わりごろ、物語の主な舞台は岡崎の矢作(やはぎ)の宿です。ここに住んでいた三河の国の国司であった兼高長者の夫婦が、鳳来寺の薬師瑠璃光如来に願って授かった子どもが浄瑠璃姫でした。
承安4(1174)年、浄瑠璃姫が16歳の春のこと、牛若丸は身分を隠して、京都の鞍馬から奥州の藤原秀衡の元へと向う旅に出ました。その道中に、矢作の宿を訪れたのです。都を懐かしむ牛若丸の耳に、浄瑠璃姫の奏でる琴の調べが聞こえ、牛若丸は琴の音にあわせて手持ちの笛「薄墨(うすずみ)」を吹いたのでした。それがきっかけとなり、姫は牛若丸を屋敷に招き寄せ、二人は出合い、惹かれ合う仲となりました。その後、牛若丸は再び姫の屋敷を忍び訪れ、拒む姫を口説き落として一夜を共にし、その翌朝、奥州へと旅立っていったのでした。

ところが、牛若丸が静岡の吹上の浜(静岡市清水区蒲原)まで行ったところで、瀕死の大病を患い、浜に棄てられてしまいました。それを牛若丸の守り神のお告げを聞いた浄瑠璃姫が助けに行きました。二人は再会を果たし、浄瑠璃姫はそこで牛若丸から彼の素性を明かされます。別れ際に、互いに形見を交換し、牛若丸は再び東方を目指し、浄瑠璃姫は矢作へと帰っていったのでした。”

幾種類もある浄瑠璃姫物語の中には、その後の浄瑠璃姫と義経の出来事を語ったものもあります。岡崎の史跡の多くは、その後にまつわるものです。

“吹上の浜から矢作に帰った浄瑠璃姫は、母から家を追い出され庵に幽閉されてしまいます。義経との再会を心の支えにしてすごしましたが、ついに悲嘆にくれて乙川に身を投じてしまいました。その後、義経は軍勢を率いて上京の途中、姫を訪ねますが、姫は既にこの世にはいないことがわかり、姫の供養のために墓所を訪れます。すると供養塔の五輪が割け、そこから姫の魂が飛び出し天に昇って行ったとのことでした。”

浄瑠璃姫にゆかりの深い矢作と岡崎城

  • 岡崎公園の東端、国道一号線沿いにある交番の東側にある浄瑠璃姫の供養塔(写真奥)。国道一号線の拡張工事の際に発見された。研究者によると、侍女だった冷泉の供養等ではないかと言われている

    岡崎公園の東端、国道一号線沿いにある交番の東側にある浄瑠璃姫の供養塔(写真奥)。国道一号線の拡張工事の際に発見された。研究者によると、侍女だった冷泉の供養等ではないかと言われている

  • 浄瑠璃曲輪跡があった場所の近くにある光明院(浄瑠璃寺)

    浄瑠璃曲輪跡があった場所の近くにある光明院(浄瑠璃寺)

浄瑠璃姫と最も関わりの深い古跡は、矢作に古くから存在していたと言われる誓願寺(せいがんじ)でしょう。建立は997年と言われていますので、浄瑠璃姫が生きた時代より更に以前からありました。このお寺の近くに浄瑠璃姫が住んでいた屋敷があったと言われています。浄瑠璃姫が亡くなったあと、兼高長者の夫婦は姫を供養するために、ここに十王堂を建て、浄瑠璃姫や義経の像や鏡などが奉納されたとされています。境内には浄瑠璃姫菩提所の碑や姫と侍女らの供養塔などが残されています。

そこから東に矢作川を越え、今の岡崎城がある竜頭山(りゅうとうざん)に、浄瑠璃姫が幽閉された庵である笹谷別邸があったのではないかと言われています。姫の死後に、侍女の一人が庵を寺に造り替え、姫の念持仏である薬師如来像を安置しました。1455年の岡崎城築城の際に、その寺は東へ移され、さらに岡崎城拡大にともなって寺は浄瑠璃曲輪とされる位置に移されたという文献が残っているとのことです。
実際に、岡崎城の本丸の北側の曲輪は持仏堂曲輪と呼ばれ、さらに、そこから約150m東に位置する1号線沿いの交番の東側には、昔から浄瑠璃姫に関連があるとされた塚があり、そこから出土した鎌倉時代の塔は浄瑠璃姫に縁のある供養塔として設置されています。そして、現在の中央図書館(りぶら)の東にある駐車場のあたりが浄瑠璃曲輪の跡であり、そのそばに浄瑠璃姫ゆかりの光明院(こうみょういん)(浄瑠璃寺)があります。

姫が入水した浄瑠璃淵

  • 吹矢橋下流の浄瑠璃淵があったとされる付近。写真の手前側で姫は入水したと言われている。今は護岸工事で綺麗になっているが、よく見ると岩場のあとらしきものが残っている

    吹矢橋下流の浄瑠璃淵があったとされる付近。写真の手前側で姫は入水したと言われている。今は護岸工事で綺麗になっているが、よく見ると岩場のあとらしきものが残っている

名鉄東岡崎駅の北口を出て、そのまま北の方向へ行くとすぐに乙川に出ます。川の手前を右折して堤防道路にそって6,7分歩くとまもなく吹矢橋が見えてきます。そのたもとにある小さな公園の川岸あたりが、浄瑠璃姫が入水したと言われる浄瑠璃淵です。浄瑠璃淵には昔は洞窟があって、姫が入水する前に身支度を整えたと言われています。後に洞窟には観音像が安置され穴観音として知られるようになりました。今は護岸工事のためにきれいに整備された場所になっていますが、大正時代の写真を見ると、確かに、岩が突き出た崖と深みのありそうな淵が写っており、今とはかなり違った様相の場所であったことがうかがわれます。現在、近くの公園に「散る花に流れもよどむ姫ケ淵」の句が刻まれた碑が建てられています。

浄瑠璃淵があった場所の南側にあるお寺が浄瑠璃姫を供養したと言われる成就院(じょうじゅいん)です。その境内には浄瑠璃姫の供養塔があり、その横には穴観音にあった観音像が移されて安置されています。

義経の物語が残る明大寺と麝香塚(じゃこうづか)

  • 義経が建立した妙大寺があったとされる場所の一つにある安心院。住宅地にひっそりと立つお寺。犬山城主の成瀬家の菩提寺としても知られている

    義経が建立した妙大寺があったとされる場所の一つにある安心院。住宅地にひっそりと立つお寺。犬山城主の成瀬家の菩提寺としても知られている

成就院や浄瑠璃淵の周辺をはじめ、東岡崎駅やその裏の丘陵地にかけての広い地域が明大寺町です。その地名の所以(ゆえん)が、姫の死後に義経が訪れた時に、義経が姫の供養のために千本塔婆をつくり、さらに複数の伽藍をもつ妙大寺を建立したことによると言い伝えられています。
今はお寺は残っていませんが、名鉄東岡崎駅の近くにある安心院のあたり、あるいは、その東にある万灯山(まんとうざん)の東側あたりだったとも言われています。また、その妙大寺の本尊だったと言われている仏像は、名鉄東岡崎駅から西に約700メートルのところにある無量寺に残されています。

成就院の南方、名鉄の踏切を越えた先にある三島小学校の裏手には麝香塚と麝香池がありました。これは、義経が姫の形見としてもらった麝香を埋めたとされる塚です。塚は宅地開発のために取り壊されてしまいましたが、塚に使われていた石は、六所神社の参道にある高宮神社の石碑の基礎として使われています。池は三島小学校の中に「みどりが池」と呼ばれて、今もひっそりと残り、小学校の裏手の小道から望むことができます。
麝香塚の近くには、千本塔婆の跡であると言われる「千本」という地名が近年まで残っていたらしく、また、義経が文を書くために使った硯を埋めたとされる「硯田(すずりだ)」という地名においては、今も三島小学校横の自然科学研究機構の敷地の地名として使われています。

義経と浄瑠璃姫を巡る歴史ミステリー

浄瑠璃姫物語で不思議なのは、姫と牛若丸(義経)とが出会ったとされたのが1174年であったにもかかわらず、その後、300年間は浄瑠璃姫物語に関する記述は何もなく、1400年代に、遠く離れた京の地でにわかに広まっていったことです。この浄瑠璃姫物語の沈黙の300年、そして、突如として京でよみがえり、「浄瑠璃」の大本として広く知られるようになったのはなぜでしょうか?
この不思議を読み解こうと歴史の扉を開くと、そこには800余年の壮大な歴史の流れが関わる、まさに第一級の歴史ミステリーがあるのです。岡崎の文化人は、一度はこの謎解きにハマると言われているように、一歩このミステリーに踏み込むと、そこには奥深い探索の世界が広がります。
平家との戦いのあと、兄・頼朝から追われる身となった義経。矢作宿も大きな被害を受けたとされる足利尊氏と新田義貞との激しい矢作川の戦い。岡崎城の築城と拡大。岡崎が松平、徳川家ゆかりの地として栄えた時代。明治以降の都市開発による中世の街から近代・現代の街への変貌。それら全てが、浄瑠璃姫の伝説と深い関わりを持っています。

伝説と現実とが交錯するまち・岡崎

  • 浄瑠璃姫の供養塔は国道沿いの林の中にある。街の中に悠久の歴史が数多く埋まっている岡崎らしい風景の一つ

    浄瑠璃姫の供養塔は国道沿いの林の中にある。街の中に悠久の歴史が数多く埋まっている岡崎らしい風景の一つ

岡崎の街の面白いところは、近代化された街並みのいたるところに、貴重な歴史の跡が残っているところです。
岡崎の誇る現代建築である中央図書館(りぶら)に行くと、実に百を超える「浄瑠璃姫物語」に関する資料が集められていて、浄瑠璃姫の伝説を学術的に研究した著作から、大東急記念文庫「十二段草子」のように、美しい絵本仕立ての和装本まで揃っています。
それらの資料に目を通したあと、図書館の正面玄関の前に出ると、そこはまさに浄瑠璃曲輪があったところです。そのすぐ先には浄瑠璃寺(光明院)があります。伝説と現実が入り交じる、何だかちょっと不思議な感覚を体験できます。
是非、あなたも浄瑠璃姫物語の壮大な歴史ミステリーの謎解きに挑戦しながら、岡崎のまちを探索してみてください。
<参考文献>
石田 茂作「浄瑠璃姫の古蹟と伝説」至文堂、1969年
岩月 栄治「浄瑠璃姫の伝説と古蹟」東海新聞社、1975年
加藤 善啓「岡崎学 浄瑠璃姫と岡崎」2009年
大東急記念文庫「十二段草子」1977年
大石 収宏「岡崎公園とそのむかし」1996年
信多 純一「浄瑠璃御前物語の研究」岩波書店2008年
岡崎市・文化振興課「岡崎の説話−浄瑠璃姫−」2002年
新編岡崎市史編集委員会「新編岡崎市史」1983年